麻雀の高みを目指す者のブログ

31才。独身。雀士修業中。

『ペドロ・パラモ』という小説について

このブログを始めたきっかけの半分はもちろん麻雀の高みを目指していきたいからである。

では残りの半分は何か?

それはこの『ペドロ・パラモ』という小説の面白さを伝えたいからである。

私が麻雀を好きなのは「面白いから」であり、この『ペドロ・パラモ』もまた非常に「面白い」ものであるため、美しいもの同士が惹かれあうように、面白いもの同士が引き寄せ合うのはこれもまた必然といってよいだろう。

 

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(決してネタ切れではない)

 

作者はフアン・ルルフォというラテンアメリカの方で私は知らなかったのですが、あのガルシア・マルケスにも影響を与えた元祖マジックリアリズムの使い手ともいうべき重要な作家だそうです。

この本の後書きにルルフォ自身の経歴についてのインタビューがあり、それがなかなか強烈だったので少し紹介します。

「私が七歳の時に父は山賊に殺された。伯父も殺され、祖父は足の親指から逆さ吊りにされ指を駄目にしてしまった。とにかく暴力がすさまじかった。」

このような強烈な過去を持つ作家の作品というのは得てして面白いものです。

 

↓以下あらすじ

ペドロ・パラモという名の、顔も知らぬ父親を探して「おれ」はコマラに辿りつく。しかしそこは、ひそかなささめきに包まれた死者ばかりの町だった……。生者と死者が混交し、現在と過去が交錯する前衛的な手法によって紛れもないメキシコの現実を描き出し、ラテンアメリカ文学ブームの先駆けとなった古典的名作。(解説  杉山 晃)

 

この小説は前半が「おれ」ことフアン・プレシアドの父親探し、後半がその父親ペドロ・パラモという人間について主に描かれます。

特徴的な手法として、物語の語り手が、1つの章、または1つのパラグラフによってコロコロ変わるので、最初は「これは今誰の視点なんだ??」となかなか混乱させられます。

しかし、慣れてくると過去に関わりのあった様々な人たちからの複合的な視点によって、少しづつペドロ・パラモという人物像が浮かび上がってきます。

ペドロ・パラモという人物は終始一貫して、あまり良い人物ではありません。周りの人たちからもまったく好かれていません。ですが読み進めていくと、周りの人がペドロ・パラモを嫌っている理由はそれぞれに違っており、単なる「嫌い」という一言では片付けられない複雑な感情を持っていることが分かります。

そして、この小説で最も美しいのはラストシーンです。ルルフォが描き出す一つの光景を前にして、ペドロ・パラモという人間の「あまりに純粋な生き方」の美しさを感じさせられます。

ここで私たちはフアン・プレシアドの当初の目的が「父親に会いに行く」であった事を思い返し、ペドロ・パラモという人にようやく出会えたような気持ちになって物語は幕を閉じます。

 

フアン・ルルフォという人は優れた写真家でもあったようです。そのためか文章の中で一つの光景を描き出す能力がとても優れています。

本や映画、麻雀と人生。我々が振り返った時に思い出すのは線ではなく瞬間の光景であるように思います。一つでも素晴らしい光景を描き出すことができたなら、それは生きた試みとして成功であったと言えるでしょう。

 

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いつかアメリカ行ったら手に入れたい。